アジアの変容と日本の近代化
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ゆらぐ幕藩体制
18世紀末、エカチェリーナ2世が中心のロシアは毛皮などを求めて東方へ進出した。
ラクスマンやレザノフは幕府に通商を求めたが、日本はこれを拒否し、これに反抗したロシアは樺太と択捉島を襲撃した。
その後も、イギリスのフェートン号が長崎に侵入したため、日本は異国船打払令を出した。
モリソン号事件などにより打ち払い見直しの必要性も浮上したが、国家の批判は蛮社の獄などで弾圧された。
日本はアイヌの文化を否定し、日本語などを教育した。
19世紀前半、江戸では化政文化が栄えたが、天保の飢饉による社会不安などがあったため、老中の水野忠邦は天保の改革を行った。
江戸と大阪にある大名の領地を幕臣の直轄地とする上知令が出された。
杉田玄白は蘭学、本居宣長は国学を発展させた。
幕府は昌平坂学問所や藩校、寺小屋などを整備した。
平田篤胤などは尊王思想を説き、尊王攘夷運動の思想的基盤となった。
開国
1853年、ペリーは浦賀を訪れ、日本に開国を要求した。幕府は日米和親条約を結んだ。
阿部正弘は世間に意見を求めたが、有力者の政治参加の拡大につながった。
1856年にはアメリカ総領事のハリスが訪れた。
堀田正睦は孝明天皇の同意を求めて上京したが、天皇らの反対により貿易開始には至らなかった。
後を継ぐ井伊直弼が日米修好通商条約を結ぶと幕府批判が広まったため、井伊直弼は安政の大獄を行った。
幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと安政の五カ国条約と呼ばれた条約を結び、貿易を始めた。
日本の文化はヨーロッパの印象派に大きな影響を与え、ジャポニズムと呼ばれた。
幕末政局と社会変動
1860年、井伊直弼が殺害される桜田門外の変が起こった。
幕府は和宮を徳川家茂に嫁がせて公武合体を図ったが、効果はあがらなかった。
薩摩藩の島津久光は公武合体を目指して幕府改革に迫った。
このころになると、尊皇攘夷運動が盛り上がった。
八月十八日の政変では、長州藩が京都から追放され、翌年長州藩が挽回を図り、禁門の変を行った。
薩摩藩は生麦事件の賠償を巡って薩英戦争を起こした。
1866年には坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれた。
徳川慶喜は幕府が長州藩に対して行った征討を中止した。
徳川慶喜は山内豊信らの建言により、大政奉還を行った。
岩倉具視らは王政復古の大号令を行った。
新政府の設立と諸改革
明治政府は国民国家を作ろうと、明治維新を行った。
